漢学や武術を学びながら時を過ごした

現在の日本で、最も知名度の高い歴史的人物として名をあげられることが多いのが福沢諭吉である。なぜかというと、1万円札にその肖像が採用されているためだ。

彼の前に1万円札にその肖像が使用されていたのは、一度に10人の話を聞き分けることができたと伝えられている聖徳太子である。

福沢諭吉と聖徳太子を同列に並べて比較することはできないが、現在流通している最高価格の通貨に肖像が採用されているという事実だけで、かなりの偉業を成し遂げた人物であることがわかる。その福沢諭吉が死没したのは1901年2月3日のことだから、既に亡くなってから100年以上経つことになる。

豊前国中津藩の下級藩士の息子として1835年に誕生した。諭吉の父親は儒学に対する造詣が深い知識人だったが、中津藩から与えられた仕事は勘定方勤番だった。

武家社会には厳しい身分制度が存在するため、もしも徳川幕府が続いていたら、福沢諭吉が今日に名を残すようなことはなかった可能性が高いと考えられる。

その諭吉自身は、武士だった頃から、門閥制度や封建制度に対する強い疑問を感じていたと伝えられている。とはいえ、ある時期までの諭吉は、中津藩藩士の一人として漢学や武術を学びながら時を過ごしていた。

藩士として身を立てるつもりなど全くなかったので好き勝手なことばかりやっており、周囲から変わり者として見られていた節がある。親戚一同から困り者扱いされていた中で、諭吉の母親だけは常に諭吉の味方になってくれた。

幕末の動乱期、中津藩から諭吉に対して江戸出府の命が出された。中津の地で埋もれてしまうことを望んでいなかった諭吉としては、願ったり叶ったりの命令であったということになる。

江戸に出た諭吉は、藩邸の蘭学塾で蘭学を教えるようになった。これが、現在ある慶應義塾大学の元になったと言われている。また、幕末までの間に官費で渡米と渡欧を経験している。

明治維新後は、啓蒙思想家として様々な発言を行う一方で、学校の創設にも助力を惜しまなかった。彼が慶應義塾の創設者であることは有名だが、それ以外に、現在の専修大学や一橋大学の創設にも尽力した。

この福沢諭吉が記した著作物として最も広く知られているのが「学問のスゝメ」である。

その冒頭で述べられている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を、諭吉自身の言葉だと誤解している人が多いが、実はアメリカ独立宣言から引用したという説が有力である。